2012年3月10日土曜日

斑鳩と入鹿

(こちらは昨年下書きしたものを表示致しました。)

斑鳩

奈良県生駒郡斑鳩町。奈良県北西部にある人口約29,000の町。

河内と大和を結ぶ交通の要衝にあたるため、古くから栄えた。世界最古の木造建築物といわれる法隆寺があり、多くの観光客を集める。
地名

「斑鳩」または「鵤」と書いて「イカル」と読む鳥に由来するとする説が一般的。
歴史

6世紀後半 藤ノ木古墳築造

601年 聖徳太子が斑鳩宮を造営

607年 法隆寺創建

670年 法隆寺焼失(8世紀初めまでに再建)

1890年 関西鉄道(関西本線)開通、法隆寺駅開設

1947年 斑鳩町発足

1949年 法隆寺金堂壁画焼失

1985年 藤ノ木古墳発掘調査で金銅製馬具など発見

1993年 「法隆寺地域の仏教建造物」がユネスコ世界文化遺産に登録

pentacross 古代☆ペンタクロス文化 pentagram
<ペンタクロス>とは、五本の直線をクロスさせて造った五芒星図形のことです。    日本文化のDNAを暗示するこの図形が、秘められた日本史の謎を解明します。
2007年02月26日
111.古墳時代の国土計画⑤斑鳩の秘密斑鳩の「里歴」が語る<蘇我vs物部>戦争の実相

★587年、天皇即位を巡って二人の大立者「物部守屋」と「蘇我馬子」による戦争が勃発。馬子側の勝利により、歴史は後期古墳時代から飛鳥時代へと大きく転換します。(リンク資料参照)
★この戦争は欽明の二人の妻「①小姉君」「②堅塩媛」の血筋間の争いで、前者を担いだのが物部守屋、後者の後ろ盾が蘇我馬子です。
①<天系>穴穂部皇子(天香子)・穴穂部間人皇女・泊瀬部皇子(崇峻)
②<豊系>橘豊日(用明)・豊御食炊屋姫(推古)・豊聡耳(聖徳太子)
※①系は「円墳」で、②系は「方墳」(蘇我氏も)。書紀では①②は姉妹、古事記では①は姨(おば)としているが、墓制が全く異なり疑わしい。
★運命の子「豊聡耳(厩戸)」は橘豊日と穴穂部間人の間に生まれました。
★詳しくは別の機会に述べますが、どうも実体は豊系・用明*の次は天系・穴穂部だったようで、これを蘇我馬子が先ず泊瀬部を立てて穴穂部を抹殺し、その後泊瀬部(崇峻)も抹殺してまんまと豊系政権(推古)を樹立させたものと思われ、ここにニギハヤヒを祖とする天神系・物部氏は衰退し、蘇我氏の天下となります。*用明の即位にも新嘗を4月に行なうなど問題が多い。
*どうも泊瀬部は兄の皇位継承を妬んで馬子の陰謀に乗ったようです。結果皇位に着いたものの「裏切り者」ですので、馬子に謀殺されても誰も文句を言う人はいませんでした。(馬子の手口は実に巧妙)
※その後大化の改新で<天系>天万豊日(孝徳/円墳)に政権は戻ります。
★図Ⅰをご覧ください。「双子の国家」の北部に大和・法隆寺と河内・大聖勝軍寺が対称して存在します。勝軍寺は物部守屋の本居跡といわれ(渋川)、守屋の墓があります。
★一方法隆寺のある「斑鳩」は、厩戸が「良い土地を探して宮殿を造った(601年・斑鳩宮)」とあるのが初見で、それ以前がどんな地だったかは不明です。
★ところがこの地には既に藤ノ木古墳(※参考)が築かれており、穴穂部皇子や崇峻が被葬者の候補。また斑鳩の東には間人の菩提寺と言われる中宮寺があります。つまり、ここは守屋が後ろ盾した「小姉君・天系」の本拠地、物部支配の地だったと言えます。更にその東には物部氏の宝物庫・石上神宮があり、どうやら物部氏はこの時期「大和川以北」を支配していたようです。
★図Ⅱをご覧ください。先にご紹介の法隆寺に隠蔽されたペンタ図形(図Ⅲ)は頂点の「経蔵伏蔵」が十連五芒星の連結点に当たり、この図形を中心に藤ノ木古墳と斑鳩宮(夢殿)が対称して存在します。
★「斑鳩の里」は、厩戸が宮を造営する前は物部氏の所領、しかも小姉君系の本拠地だった可能性が大です。(伏蔵には「物部氏の宝物が埋まっている」との言い伝えもあります)
☆推理です。ペンタ豪族・物部守屋は渋川・斑鳩を拠点に河内・大和に君臨。これを蘇我物部戦争で蘇我氏が接収。厩戸は「物部の霊を鎮める(政治的に)」ために宮・寺を造営(渋川や四天王寺にも)。どうやら仏教は「物部神道」を制圧するための政治的方便に使われた可能性があります。
☆そして大化の改新後には、今度は律令勢力がペンタ図形を「再建法隆寺」で隠蔽。斑鳩の里には少なくともこの三層の里歴が確認されます。
①古墳時代(物部系)藤ノ木古墳・法隆寺潜在ペンタ(伏蔵・鯛石)
②飛鳥時代(蘇我系)斑鳩宮・斑鳩寺(若草伽藍)・焼失法隆寺
③律令時代(天武系)現法隆寺・夢殿
☆またこの戦争は、ペンタ棲み分け文化から仏教文化による統一国家形成への画期とも言えそうです。(これをよく宗教戦争と捉えますが、宗教は目的と言うより政治手法の側面で考えます)。その後寺院はペンタ結界点に競って建てられ、「ペンタネット」が形成されます。
※勝軍寺-法隆寺ラインのほぼ中間にある「信貴山」にもこの戦争に関わる伝説があり、ここのご本尊が聖徳太子側に味方したそうです。
※守屋の本拠地名は渋川・阿都(アト)。一方斑鳩の南にも安堵(アンド/アト)の地名があります(河内・大和の二重地名)。また斑鳩とは「イカル(アトリ)」という鳥だそうです。
※ちなみに物部守屋は「弓削連」、蘇我(入鹿)は「鞍作臣」。共に軍事に関わる職掌です。また奈良時代の怪僧「弓削道鏡」は物部系で、「昔の夢よもう一度」みたいに言われていたそうです。その物部は今も四国の山中で生きています。
※小姉君の子・穴穂部姉弟の養育地は、「@安康-石上穴穂宮」とあることで物部の聖地「石上神宮」付近だったと思われます。


入鹿

凡例蘇我入鹿
時代 飛鳥時代
生誕 不明
死没 皇極天皇4年6月12日(645年7月10日)
別名 林大臣、鞍作大郎
墓所 飛鳥寺
官位 大臣
主君 皇極天皇
氏族 蘇我氏
父母 父:蘇我蝦夷
表・話・編・歴

蘇我氏略系図 SVGで表示(対応ブラウザのみ)
蘇我入鹿首塚と甘樫丘(2005年9月撮影)蘇我 入鹿(そが の いるか)は、大和朝廷の有力者。大臣(おおおみ)。大化の改新の前夜乙巳の変において討たれ、その後、蘇我氏が凋落するきっかけとなった。

目次 [非表示]
1 生涯
1.1 学説
1.2 関連史跡
2 入鹿が登場する作品
2.1 戯曲
2.2 小説
2.3 漫画
2.4 ドラマ
3 関連事項


生涯 [編集]
以下は主に『日本書紀』などの記述による。

青少年期は僧・旻に学問堂で学んだ秀才だったと言われている。

父の大臣・蘇我蝦夷の晩年の642年(皇極天皇元年)、皇極天皇の即位に伴い、父に代わって国政を掌理する。

同年7月23日には従者が白色の雀の雛を手に入れた。雀は祖父の蘇我馬子を表された事があるとされている。翌643年(皇極天皇2年)の10月6日には父から独断で大臣を譲られる。

これにより、実質的にも形質的にも蘇我氏の家督を継いだという見方があるが、この頃聖徳太子以来、皇室の周辺に国政を天皇中心に改革せんとする気運が強まったとされ、入鹿はこのような動きを押さえ蘇我氏の縁の強い古人大兄皇子を天皇につけようと図ったが、そのために邪魔になる聖徳太子の王子、山背大兄王ら上宮王家の人々を自殺に追い込んだ。大臣を譲られてから1ヶ月も経たない11月上旬の事である。ただし、上宮王家討伐については皇極天皇即位に関して山背大兄王が謀反を起こす恐れがあるため他の皇族とはかって暗殺した(つまり犯行は入鹿の独断ではない)と日本書紀とは矛盾する記載が「藤氏家伝」にある。

644年(皇極天皇3年)11月には甘樫丘に邸宅を築き、これをそれぞれ「上の宮門(みかど)」、「谷の宮門」とし、さらに自分の子女達を皇子と呼ばせた。また、畝傍山に要塞を築き、皇室行事を独断で代行した。

これらの政策により、入鹿は実質最高権力者としての地位を固め、その治世には人々は大いに畏敬し、道に落ちているものも拾わなくなったと言われた。しかし、そのような入鹿の天下は長くは続かなかった。古人大兄皇子の異母弟で、皇位継承のライバルだった中大兄皇子(後の天智天皇)・中臣鎌足らのいわゆる乙巳の変のクーデターによって、飛鳥板蓋宮の大極殿において皇極天皇の御前で暗殺された。従兄弟に当たる蘇我倉山田石川麻呂が上表文を読み上げていた際、肩を震わせていた事に不審がっていた所を中大兄皇子と佐伯子麻呂に斬り付けられ、天皇に無罪を訴えるも、あえなく止めを刺され、雨が降る外に遺体を打ち捨てられたという。

後日、父・蝦夷も自殺し、ここに蘇我宗本家は滅びる。この後も従兄弟の石川麻呂とその弟の蘇我赤兄が大臣を務めるが、赤兄が壬申の乱で流罪になって以降は、蘇我氏(石川氏)は納言・参議まで出世するのがやっとというクラスにまで低下し、かつての栄光は戻らないまま、平安時代初期には公卿が出るのも途絶え、歴史から姿を消す事になる。

学説 [編集]
『日本書紀』は入鹿の事績を蘇我氏の越権行為ならびに古人大兄皇子への皇位継承の準備と批判しているが、蘇我氏は元来開明的だった事もあり、唐や百済等当時の国際状況に対応する為だったという意見もある。実際、「上の宮門」「谷の宮門」の跡地とされる場所からは、武器庫の遺構や武器が発掘されている。また、遣唐使も度々派遣されており、唐の日本派兵を蘇我氏が警戒していたことが伺える。

入鹿の暗殺とそれに続く蘇我本宗家の滅亡に関して、近年では、改革の主導権争いを巡る蘇我氏と皇族や反蘇我氏勢力との確執が暗殺のきっかけになったとする見方がある。

また、蘇我入鹿という名前は、中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(後の藤原鎌足)によって、これまでの名前を資料とともに消され、卑しい名前として彼らが勝手に名付けたものであるという説もある(門脇禎二ら説)が、これには反証が試みられている(加藤謙吉)。

関連史跡 [編集]
飛鳥寺境内と甘樫丘にほど近い場所に、「入鹿の首塚」が存在する。また、2005年11月13日に奈良県明日香村において、蘇我入鹿邸跡とみられる遺構が発掘された。

朝日日本歴史人物事典の解説生年: 生年不詳
没年: 大化1.6.12 (645.7.10)
皇極朝(642~645)の大臣。林臣,宗我太郎,林太郎,鞍作とも称する。蝦夷の子。動物の海豚にちなむ名か。中臣鎌足らと共に僧旻の教えを受け,「吾が堂に入る者に宗我太郎に如く者なし」と評される。皇極朝にはみずから国政をとり,その威は父にまさるとされた。皇極2(643)年,大臣位を父の蝦夷から継承すると,古 人大兄皇子を次期大王とするために,競争相手である山背大兄王ら上宮王家一族を斑鳩宮(奈良県斑鳩町)に襲い滅亡させた。父の蝦夷と共に自らを天子に擬する専横ぶりが伝えられ,同4年,中大兄皇子(のちの天智天皇)らによっておこされた「大化の改新」の発端になったクーデタにより,飛鳥板蓋宮で殺害された。戦前の教科書などには悪逆非道な人物として描かれていたが,近年その人物像は再評価されるようになった。なお,飛鳥寺の近くに蘇我入鹿首塚(奈良県明日香村)がある。<参考文献>門脇禎二『蘇我蝦夷・入鹿』
(仁藤敦史)


ウイキペディアより